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亀井南冥とはいかなる人物か
 《亀井南冥とは・・・》
1743年(寛保3年)8月25日、筑前国姪浜(現在の福岡市)の村医・亀井聴因の長男として生を受ける。
江戸中期〜後期にかけて活躍した儒学者で、医者、教育者、漢詩人でもある。
徂徠(そらい)学派の僧・大潮元皓に儒学を、後に大坂で永富独嘯庵(どくしょうあん)に医学を学ぶ。
帰郷後は父と共に唐人町(現・福岡市中央区)に開業する傍ら、1762年(宝暦12年)には私塾を開き、
多くの門人を集めた。

その一方、南冥は度々長崎を訪れては時代の新風に触れたり、京坂に遊んでは大坂の混沌詩社(※こんとんししゃ)にも出入りするなど 自由人でもあった。
1778年(安永7年)、福岡藩の儒医として採用され、1784年(天明4年)には福岡藩の二つの学問所の一つ「甘棠館」(西学問所)の祭酒(学長)を任された。 (もう一つの学問所は「修猷館」(東学問所)であり、学長は竹田定良(朱子学者)である)
南冥が祭酒に就任して4日後、志賀島にて金印(漢委奴国王印)が島の農民により発見された。南冥は『後漢書』東夷伝を引用し、金印の由来を説明。 次いで『金印弁』を著して金印の価値を世に知らしめた。

【亀井南冥 肖像画】
「亀井南冥」肖像画
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〜亀井南冥のゆかりの地巡り〜
 ※写真をクリックすると拡大して見ることが出来ます。(別窓が開きます)
 (住所をクリックするとGoogleストリートビューで近辺を確認する事ができます)

@亀井南冥 生誕の地・・・福岡市西区姪浜3-14
亀井南冥生誕の地 案内板   亀井南冥生誕の地 碑
亀井南冥生誕の地と呼ばれている場所。現在は住宅地の中の駐車場の一角に碑と案内板が立っていた。 近くの保育所からは子ども達の笑い声が聞こえ、今も南冥が若い命の成長を見守っているかのようだった。

A善龍寺 亀井南冥書「瑞雲」・・・福岡市中央区唐人町1-8-55
  善龍寺 桜門   亀井南冥の書「瑞雲」
唐人町商店街の西側入口(ヤフードーム側)のすぐ近くにある浄土真宗東本願寺派瑞雲山善龍寺の桜門には、 亀井南冥によって書かれた「瑞雲」の文字が掲げられている。力強い筆の運びには、彼の生き様そのものを感じさせられる。

B西学問所「甘棠館」跡・・・福岡市中央区唐人町3丁目
  甘棠館跡地   甘棠館跡地
唐人町商店街のすぐ近くにひっそりと佇む西学問所(甘棠館)跡地。案内板と碑が残るのみとなっている。 あまりにも周囲の風景に溶け込んでいるため見落としがちになってしまうが、暮らしのすぐ傍に歴史の足跡が残っている。

C塵即山 浄満寺・・・福岡市中央区地行2丁目3-3
  浄満寺 入口   浄満寺 案内板
浄土真宗本願寺派の浄満寺。車も多く走っている大通り(明治通り)に面しているものの、威厳を感じさせる門を眺めていると 心穏やかな気持ちになってくる。門横には「亀井南冥 昭陽両先生墓所」と書かれた碑と、亀井南冥・昭陽の姿が描かれた案内板が立っている。
  亀井南冥の墓   亀井一族の墓
墓所の一番奥(北西角)に南冥を含む亀井一族の墓が揃ってたっている。中央に南冥、向かって右隣が南冥婦人、 そしてその右には息子である昭陽の墓が在る。南冥の墓に向かって左隣は南冥の母・父の墓が並んでいる。

 亀井一族の墓の碑   亀井南冥・昭陽の墓の碑
一族の墓を囲むかのように、左側には「贈従四位南冥亀先生遺欽慕之碑」、 右側には「亀井南冥 昭陽両先生墓地」と書かれた碑が立っている。
  亀井一族のお墓の並びついての案内板
お参りに来られた方が一つひとつのお墓を間違えずにお参りできるように、 お墓の並びが案内板に書かれている。

〜亀井南冥ゆかりの地 案内地図〜
「亀井南冥ゆかりの地」案内地図
@亀井南冥 生誕の地 A善龍寺 亀井南冥書「瑞雲」
B西学問所「甘棠館」跡 C塵即山 浄満寺
「亀井南冥ゆかりの地」としてご紹介致しました場所への案内を地図に記載しております。
(紹介文頭に付いております番号を、地図内に赤で表示しています)
※地図をクリックすると拡大して見ることができます。









ゆかりの地巡り
相関図【随時公開】
「博多座」オフィシャルサイト
「福岡市博物館」 
常設展示室にて金印を展示中
「能古博物館」 
本館第一展示室にて
「亀井南冥と亀井学」を展示