お芝居『柳暗花明〜博多、柳町の栄落〜』の舞台となった、
博多・柳町の歴史をご紹介します。
■「新柳町」が在ったとされる、現在の「清川」。(クリックで拡大地図)
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“柳町”は“新柳町”として現在の福岡市中央区清川に存在していた。
なぜ「新」柳町と呼ばれたのか・・・・・。
そんな“柳町”の移り変わりを、時代を追って紐解く・・・。
博多には江戸の吉原、京の島原と並び称された遊郭「柳町」がありました・・・
柳町の歴史は福岡城築城から始まります。
黒田長政が福岡城を築城する際、付近にいた女郎達をひとまとめにして、
石堂川(三笠川)の河口に集めました。そして、遊郭を作ったのです。
江戸時代から明治後期まで、博多柳町は博多の遊郭として栄えます。
転機が訪れたのは明治後期(明治44年)、福岡県は帝国大学の誘致に成功。
箱崎に九州帝国大学が設立されることになりました。
しかし、遊郭である柳町からそう離れていない。これでは都合が悪いと、
柳町を町ごと住吉村へ移転させたのです。
そうして生まれたのが新柳町(現在の清川町付近)です。
移転当初は田んぼしかない田舎で、客足も遠のきますが、
電車が通るようになって賑わいを取り戻し、大正9年には娼妓の数が
600名を超えた時代もありました。
大正の好景気の時には様々な西洋文化も入り、郭の近代化も進みました。
明治15年には娼妓達の為の学校、翠糸学校も建てられ柳町は隆盛を極めます。
戦時中には贅沢が禁止され、料亭などは営業停止になりましたが、
新柳町は軍の慰安所として、営業が許されていました。
福岡大空襲では多くの店が焼けてしまったもの、町は死ななかった・・・。
そして、戦争が終わりGHQにより公娼制度の廃止が訴えられ、
昭和33年に売春防止法が制定され、すべての遊郭は営業停止になります。
その後、町名改正により柳町という名前は福岡から姿を消すのです。
昭和 21年 | GHQにより公娼制度の廃止が求められるが、私娼は認められた新柳町は残る。 |
昭和 25年 | 復興を祝う「明月まつり」を開催、花魁道中が町を練り歩いた。 |
昭和 33年 | 売春防止法の施行に伴い、新柳町の全ての店は営業を停止する。 |
昭和 37年 | 町名改正により、柳町という名は博多から消えさる。 |
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■後援
福岡県
福岡市・福岡市教育委員会
(公財)福岡市文化芸術振興財団
公益社団法人 福岡県人権研究所
■協力(敬称略)
唐人町商店街振興組合
協同組合唐人町プラザ甘棠館
■助成
(公財)福岡市文化芸術振興財団
「FFACステップアップ助成プログラム」
■企画・制作
劇団ショーマンシップ
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