元禄7(1694)年の末、須崎であわや大火になろうかという火事があり、各町から町火消しが出動しました。

火はまもなく消し止めましたが、唐人町と某町の町火消し同士が喧嘩となり、その結果、相手方に3人の死者が出ました。

翌日、町奉行から下手人を出すように求められ、唐人町の人々は困り果てていました。この事件を知った森八兵衛は、 「独り身の自分が罪を引き受ければ、父母妻子のある人が命をなくし遺族を悲しませなくてもすむので、代わりに罪を受けよう」と町の人々に申し出ました。 その申し出に町の人々は戸惑いましたが、本人の意志は強く身代わりとなったのです。

町の人々は、八兵衛に後世の弔いを絶やさないことを誓い、彼の処刑の後に建立されたのが「八兵衛地蔵」です。現在では、消防の守り地蔵としても崇められています。(中央区歴史と文化の説明板「八兵衛地蔵の由来」より)